寿司はネギトロが好きです

海は遠いのか

感情の大トロ

今日の通り雨みたいな

わたしは生きてるだけで他人に勝手に勇気を与えていることがしばしある。らしい。大体精神を病ませているときにそういうことは起こる。つらい時は永遠につらいけど、そういうモードがデフォだし病みモードがちょっと好きなのかもしれない。最近は誰かに振り回されてる自分が恋しかったりもする。そうやって生きてうまれた態度や言葉がわたし自身好きだし、それが人に勇気を与えていることも好きだな。それを仕事にするとしたらやっぱりアーティストしかなくないすかね。表現者、創造者、なりたい。

 

そして今日、もう、「ふたり」 に固執しなくて良いかなと思った。他の人に判断されてどういうところが無理なんて言われたらたまったもんじゃないっすよほんと、他人の好みに合わせて生きてないでしょ。みんなの話聞いてると、あなたはあなたのまま生きて と言いたくなってしまう。常に戦闘モードで居るということはつまり、わたしも他人に対して判断を下しちゃってるってことだよなーと気づいた。こうやって考えてみると、人からどう思われるかとか気にせず自分の好きなように過ごせないのであれば恋人とか要らんしわざわざ探しに行くのはただの一瞬の娯楽のため、それは果たしてほんとにわたしが望んだ恋愛の形なのかなあ?

「ふたりでいたい」とか縛られて生きるのやめませんか。世の中とわたしよ。ひとはひとりだよ。みんな、すきに生きませんか。でも、わたし個人はいろいろ思うことはあるけど、わたしはあなたが選んだ道を認める。絶対に否定しない。

 

いろんなひとから、大人になったね、落ち着いたね、客観的になったねと言われる。最近ひとりで知らぬ間にめちゃくちゃ考えているもんな。考える行為は好きだ。そして形に残すのは楽しい。なんかという言葉を知らぬ間に発してしまうことはよくあると思うのだけど、「なんか」のその中身が知りたい。「なんか」なんかで済ませたらダメだ。というより、「なんか」にこそ大事なことが詰まっているのだと思う。だから「なんか」の内容を言葉にするようにしている。

 

自分の思考や生まれてくる言葉、顔もセンスも、好きだな。自己肯定はできていることに最近気づいた。わたしはいままで何とかしてきたし、これから何とかするのも薄々わかっている。ただ、何をどうやって何とかするか決められないから、死にたいという思考に至る。でも死にたくはないな。わたしはまだ死にたくない。多分、将来何とかしてる。わたしが見える。死にたい死にたいと言ってなんとか生きていくはず。と書いたら死にたくなってきたけど。

 

今日は、トータルで明るい日だったな。風が強くて、知らないところに通り雨が来て去っていった日。